#令和元年の奥の細道 02 旅立ち~草加

旅立ち

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧〃として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。

行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人〃は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

 いよいよ奥の細道の旅が始まります。

 芭蕉は深川から隅田川を上って千住で上陸し、旅を始めました。私たちも舟に乗れれば面白かったのですが、今回の旅では軽自動車が足になるので、まずは東京メトロ綾瀬駅近くのレンタカー屋へ。車を借りて、旅立ちの地、千住へと向かいます。

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千住の素戔雄神社にて 「行く春や」句碑

 千住には何か所か句碑があるようですが、私たちは素戔雄神社の句碑を訪ねました。境内の右脇に隅田川を模した池と千住大橋を模した石橋があり、その向こう岸に句碑が並びます。句碑へと至る石橋と句碑を上から覆うように茂る木の枝葉が奥行きを感じさせ、雨に濡れた石や苔が却って質感を際立たせます。7泊8日の旅の安全を祈願し、神社を後にしました。 

草加

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

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草加にて 芭蕉

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草加松原 「おくのほそ道の風景地草加松原」として名勝に指定されている

 千住から国道4号で北上して草加へ。草加といえば獨協大学前〈草加松原〉駅西側の松原団地のイメージが強かったのですが、今回訪れたのは駅東側の綾瀬川沿いに伸びる草加松原遊歩道。(あとから調べたところ、どうやら車を借りたレンタカー屋のある「綾瀬」という地名はこの綾瀬川の流域であったことに由来しているようです。)この遊歩道の一角に芭蕉銅像が立っています。句碑はありませんが、銅像台座に「もし生きて帰らば~」の碑文があります。銅像近くには「草加宿芭蕉庵」とある小屋が設けられ、そこで草加煎餅を購入。草加煎餅は江戸時代に街道の名物となったようです。当時の草加宿は獨協大学前駅草加駅の間に相当する位置にあったようですが、現在でもこの日光街道沿いに煎餅屋が営業しています。

 草加松原は「おくのほそ道の風景地」として名勝に指定されています。この名勝は地理的に離れた複数の県をまたいで一体的に指定されている点で特徴的なようで、執筆時点では草加松原を含めて25か所指定されています。

 草加からは一気に飛んで、「室の八島」栃木県栃木市大神神社へと車を進めます。草加から大袋駅付近で国道4号に合流し、車窓の景観が市街地から郊外へと一気に変化します。首都圏の市街地は鉄道路線沿いにヒトデ状に広がっているといいます。これまで走っていたのは東武伊勢崎線というヒトデの「腕」だったわけですが、大袋駅付近で国道4号はヒトデの腕から逸れていきます。こうした鉄道ネットワーク・道路ネットワーク・市街地の広がりといったレイヤーの重なり方が、軽自動車の運転者たる私に車窓の景観として知覚されるのです。

 並走する多数のトラック、沿道のロードサイド型店舗とその巨大で派手な色遣いの看板、スケールアウトした物流施設や工業団地といった「郊外の幹線道路」の景観は今後の旅を象徴する景観のひとつであり、似たような景観をこのあと何度も目にすることになります。

 

 今回はここまで。次回は「室の八島」からです。