読書メモ:饗庭伸『平成都市計画史』

本書の構成

第1章:史観

平成期の都市計画を歴史として扱うにあたり、本書に通底する史観を述べている。次章以降で述べる歴史像や個々の史実を理解するための前段の役割を果たす章である。

第2・3章:バブル経済

第2・3章は、第1章で提示された発展的都市計画史観を平成期に適用した際の歴史像を概観している。第4章以降でテーマ別に個々の史実を述べるための前段の役割を果たす章である。

第4~6章:政府、市場、住民

第3章のキーワードである、規制緩和地方分権、特区、コミュニティを軸に平成の都市計画史を概観する。

第7~10章:個別分野

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第1章 都市にかけられた呪い

明治維新以来の150年は、都市計画史の視点から、萌芽期(1868 明治維新~ cf.1888 東京市区改正条例)、確立期(1919 都市計画法(旧法)制定~ cf.1923 関東大震災、1939 第二次世界大戦)、成熟期(1968 都市計画法(新法)制定~)、の3つの時代に区分できる。

都市計画は、Ⅰ.制度も少ない状態→Ⅱ.法が多く制度が少ない状態→Ⅲ.法も制度も多い状態→Ⅳ.法が少なく制度が多い状態、の4段階で発展するといえる。*1

また、150年間の日本の都市形成を概観すると、日本の都市は、多くの規制的な態度(都市の無秩序な発展を防ぐために規制する態度)とわずかな設計的な態度(都市空間は設計するものであるという態度)により形成されたといえる。

以上の(法が多い⇔制度が多い)と(設計的な態度⇔規制的な態度)という対比軸から、日本の都市計画は以下のような発展を辿ったといえる。①法が多く、規制的な態度が優位(都市計画)→②法が多く、設計的な態度が優位(ニュータウン)/②制度が多く、設計的な態度が優位(まちづくり、市場による都市計画)

いずれの発展形態も、①の都市計画を突破しようとする動きにより実現される。ニュータウンでは法の高度化による突破であり、まちづくり/市場による都市計画では制度の蓄積による突破である。

頭書の時代区分でいう成熟期すなわち都市計画新法以後の都市計画の最大の特徴は、制度による法の突破を予め組み込んだ法設計*2である。都市の無秩序な拡大を抑制する線引き容積率という都市計画規制は都市計画新法により一斉導入され、これらは制度による広さ(まとまった敷地面積)と設計(適切な開発計画)により解くことができる。

補足

本文中では、都市計画関連業界ではなじみの薄い概念が援用されている。本文を追っていても尚難解であるため、この読書メモでは初見での理解しやすさを重視し、本文中の難解な表現は極力使わず噛み砕いた表現としている。

第2・3章

平成前夜・平成初期にあたるバブル経済期の失敗と反省が平成期の都市計画の変化を規定した。

第2章

バブル経済期を経て、政府(法)においては、いくつかの規制緩和の方法が試行されたが、容積率と線引きは大きく緩和されることはなかった。市場の制度においては、活発な都市開発が行われるも、バブル崩壊(地価暴落)により全体的に疲弊した。また、住民の制度は、ほとんど発展しなかった。

第3章

平成期は、上記の状況を踏まえて、育った制度の維持改善、疲弊した制度の修復を目的に、以下の手段が講じられた。

  1. 規制緩和市場/住民の制度に都市計画をゆだねようとする動き。
  2. 地方分権:市場/住民の制度に距離が近い市町村に都市計画をゆだねようとする動き。
  3. 特区規制緩和地方分権を限定的な時間・空間でおこなう仕組み。地域で取組を行う主体(市場の制度)による地域の再生を目的としている。
  4. コミュニティ:地域で取組を行う主体(住民の制度)による地域の再生を目的とし、地域を限定して規制を緩和する仕組み。地域で取組を行う主体(住民の制度)による地域の再生を目的としている。

第4章 都市計画の地方分権

1968年の都市計画新法において既に、都市計画の大部分の権限が機関委任事務として都道府県に移っていた。平成期の都市計画分野の地方分権は、都市計画の目標・権限・財源都道府県から市町村に委譲するプロセスであった。分権は以下の4段階で進められた。

  1. 1992(H4) 都市計画法の大改正
    市町村の都市計画に関する基本的な方針(通称:市町村MP)が導入され、その策定にあたり公聴会等の住民参加が法定化された。
  2. 1993(H5)~2000(H12) 第1次地方分権改革
    機関委任事務制度が廃止され、都市計画の大部分が機関委任事務から自治事務になったことで、国や県の関与の仕方が上下関係から水平的関与に変化した。
  3. 2001(H13)~2006(H18) 三位一体の改革
    三位一体の改革は、国から地方への税源移譲、国庫補助負担金の改革、地方交付税の改革を指すが、そのうち国庫補助負担金の一部廃止・縮減と引替に、従来の補助事業より市町村の自主性・裁量性が大幅に向上したまちづくり交付金(現:都市再生整備計画事業)が創設された。
  4. 2006(H18)~ 第2次地方分権改革

同時に、1999(H11)~2011(H23)にわたる都市計画法の段階的な改正により、都市計画の決定権限の一部が都道府県から市町村へ権限移譲された。

特に1999(H11)には国→都道府県、都道府県→市町村の関与の仕方が「認可」から「協議・同意」へ変化した。これと同時に、市町村がその権限を行使するのをサポートするため、都市計画運用指針の策定や市町村都市計画審議会の法定化がなされた。

また、住民により近い市町村への分権が進められるのと並行して、2000(H12)の地区計画申出制度の創設、2002(H14)の都市計画提案制度の創設など、住民参加の方法も拡充された。

第5章 コミュニティの発達と解体

成熟期の始まりごろに定義された「コミュニティ」という語は、法と住民の制度の間におかれた暫定的なプロトコルであり、平成期を通じて、法と住民の制度の間には様々なプロトコルが生み出され、淘汰・変容していった。

その変容を概観すると、地縁や共属感情をベースとしたコミュニティから、共通の目的をベースとしたアソシエーションへと移り、アソシエーション同士のネットワークが発展してきたといえる。一方、地縁ベースのコミュニティに比べて目的ベースのアソシエーションは脆く、平成を経て作り上げられた「尖ったアソシエーションと弱いコミュニティ」による都市計画制度は実に代わりやすいバランスの上で成り立っている。

住民参加のプロトコル

平成期に入るまでに、公聴会、住区協議会、地区まちづくりといったプロトコルが編み出された。

公聴会は、個々の住民の組織が等しく意見を表明し、議論できる説明会や討論会を開催し、公開の場で討論・決定できるようなプロセスだった。強い政府に対して活発に住民運動が展開されるという「法が強く、制度も多い」状況を想定して作られたが、日本の地域における住民の組織は実際はそれほど多元化しておらずそれほど活発でもなかったため、現在に至るまであまり使われなかった。

住区協議会は、都市をあるべきコミュニティの単位に分割し、各単位に底を代表する議会のような会議体を作りあげようとした。「住民は制度を作り出せていない」という認識のもと、コミュニティの代表となる会議体を創ればそこを起点にコミュニティが作り出されると想定して作られたが、会議体はあくまで会議体でありコミュニティはあまりできず、また、会議体は議論し決定する場ではあるが実行する場ではなく、実行部隊となる行政が住区協議会にリソースを割けなかった。結果的に大きく広がることはなかった。

地区まちづくりは、既に実態のある活発な住民組織と政府が戦略的に関係を作り、都市計画の法と住民の制度の関係構築を図った。住区協議会と同様に区域内の課題をすべて解決しようとする"均等平等主義的"な側面をもつ一方、住区協議会と異なり都市全体を網羅的にカバーするのではなく都市内の特定の区域のみを対象とする"戦略主義的"な側面もあった。

地区まちづくりのなかで導入されたワークショップ手法により、協議の場は構造化され明確な目的を持つものになったと同時に、目的を強く持たないじっくりと地域の合意を醸成するような堅苦しい会話は淘汰されていった。

NPOは地区まちづくりのような総合的・区域ベースの組織ではなく専門的・目的ベースの組織として設立され、個々のNPOを点、NPO同士のつながりを線とするネットワークによる都市計画が構想され、強化されていった。

1998(H10)のNPO法により法人設立を許可制でなく認証制としたことにより法人設立が活発になったほか、NPO同士/NPO-行政/NPO-民間組織をつなぐ中間支援機構の登場をみた。また、2003(H15)に始まった指定管理者制度NPOが指定管理者として施設の管理運営にかかわりNPOの経営基盤を強化することにつながった。NPOは住民と政府の関係を住民参加から協働関係へと変化させた。

中心市街地活性化におけるプロトコル

中心市街地活性化においても政府と住民の制度の間のプロトコルが模索された。1998(H10)中心市街地活性化法ではウンマネジメント機関(TMO)中心市街地における商業集積の一体的かつ計画的な整備をマネージすることが想定された。しかし、その障壁となる所有権と利用権の分離は、当時TMOとなるべく期待された商工会議所では商業者の会員組織という性質上難しく人でも十分でなかったためTMOの効果は限定的であった。

2006(H18)の中活法改正でTMOは法的な位置付けを失い、新たに、具体的な建物の再生やサービス提供を担うまちづくり会社中心市街地整備推進機構や、これらの組織が参加する中心市街地活性化協議会が位置付けられた。区域内のすべての活性化の取組を行おうとした"均等平等主義的"なTMOに代わり、専門特化した組織のネットワークが活性化の取組を行い、協議会をその連絡調整や意見集約のためのプロトコルとして設置する"戦略主義的"な座組への変化だった。

中心市街地の再生が課題となったH10年代ごろからエリアマネジメントが検討されるようになった。一定の区域内における建物や道路・公園などのインフラをNPOや民間企業などが政府に代わって維持管理するもので、区域内のすべてを対象とする"均質平等主義的"な側面と、地域価値の維持・向上という明確な目的に基づく"戦略主義的"な側面を併せ持つ。財源の確保は地権者からの賃料収入による場合もあれば、行政が地権者から分担金を徴収しエリマネ組織の財源に充てる方法も現れた。

第6章 図の規制緩和と地の規制緩和

バブル経済崩壊により疲弊した市場の制度に対し、市場の制度を修復する動きと、市場の制度を復活させるための規制緩和の動きがみられた。

市場の制度を修復する動きとして、1994(H6)の民間都市開発推進機構への土地取得・譲渡業務の追加による民間都市開発事業の土地有効利用の促進、1996(H8)に始まる住宅金融債権管理機構住専債権回収による不良債権化し土地の処理、1997(H9)の新総合土地政策推進要綱による地価抑制から土地有効活用への政策方針転換、2000(H12)の投資信託法改正に始まるJ-REITによる民間都市開発業者の開発資金調達の活発化が展開された。

規制緩和は、一律に緩和する「地の規制緩和」と、設計との引換を条件とした「図の規制緩和」との両輪で行われた。

地の規制緩和として、地下室の容積算入に関する規制緩和共同住宅の共用部分の容積算入に関する規制緩和指定確認検査機関の導入、用途地域における容積率等の選択肢の拡充天空率の導入がおこなわれた。

図の規制緩和として、平成期に至るまでは、特定街区総合設計制度高度利用地区地区計画といった制度が存在していたが、バブル経済期の1988(S63)の再開発地区計画に端を発して、1990(H2)に用途別容積型地区計画住宅地高度利用地区計画、1992(H4)に誘導容積型地区計画容積適正配分型地区計画、1995(H7)に街並み誘導型地区計画、2002(H14)に高度利用型地区計画・再開発地区計画・住宅地高度利用地区計画を統合した再開発等促進区が創設され、地区計画制度は詳細な都市計画を実現する手法という当初の趣旨から規制緩和手法へと変化していった。

また、2002(H14)の都市再生特別措置法に基づき国が都市再生緊急整備地域を指定し、その地域内の規制緩和を民間事業者が提案し、それを受けて都道府県が都市再生特別地区を決定し規制緩和をおこなう制度が創設された。

資金調達面でも、民都機構や日本政策投資銀行による債務保証、民都機構道路や公園等の公共施設の建設費用の無利子融資といった支援制度が創設された。

東京都においては独自の「図の規制緩和」のしくみが作り出された。2001(H13)の東京の都市づくりビジョンで示したセンター・コアにおいて、2002(H14)の東京都における都市再生特別地区の運用についてと2003(H15)の新しい都市づくりのための都市開発諸制度活用方針で示した公共貢献と規制緩和のメニューを使って市場に設計させる、とい手法である。事業者と都の事前相談でメニューの組合せを協議し、事業者からの正式提案後、都庁内での検討を経て都市計画案の作成を行うものである。

地の規制緩和と図の規制緩和により市場の制度は成長したが、その成長は収益を原動力としたものであり、収益を上げやすい都市を作ることに特化した成長であったともいえる。

第7章 市場とセーフティネット

平成期は、公営住宅公団住宅住宅金融公庫という住宅政策の三本柱の終焉と、市場とセーフティネットからなるポスト三本柱の時代への転換期となった。住宅供給は量的水準・質的水準は好調に推移し、今日ではフローの供給ではなくストックのマッチングが主要な課題へと変化している。

三本柱の終焉

公営住宅は、1996(H8)の公営住宅法大改正により民間住宅の借上・買取による公営住宅の間接供給が可能になり、入居者収入や立地・規模を加味した応能応益家賃制度が導入されたが、結果的に公営住宅の戸数は2003(H15)をピークに減少が続いている。

公団住宅は、2004(H16)の都市再生機構への再編で賃貸住宅の新規供給は原則廃止となった。

2005(H17)に社会資本整備審議会の答申「新たな住宅政策に対応した制度的枠組みについて」において、従来の三本柱に代えて、市場重視の新たな住宅金融システム公的賃貸住宅ストックの有効活用による住宅セーフティネットの機能向上の二つの枠組みが示され、2007(H19)住生活基本法、2007(H19)住宅セーフティネット法が制定された。

住宅金融公庫は2007(H19)に廃止、住宅金融支援機構が設立された。従来の公庫のような直接融資は原則廃止し、住宅ローンの証券化支援という形で民間金融機関の支援をおこなう役割を担うようになった。

市場とセーフティネットによる需給ギャップの調整

平成期後半において量的水準・質的水準ともに住宅供給は順調に推移した。一方、需給がうまくマッチングしないギャップを調整することが課題となっている。

身体・精神機能が衰えていく高齢者の住宅需給ギャップに対し、市場はサ高住や有料老人ホームといった高齢者向けの住宅や福祉施設を作るなどフローを多様化することによりギャップの調整が進んだ。一方、1973(S48)に住宅数が世帯数を上回って以降その差は開き続け、余剰ストックに対しフローが供給され続ける状況となったことから、空家対策が新たな課題となり2014(H26)には空家対策特別措置法が制定された。

セーフティネットによるギャップ調整は、新規建設がほとんどなくなった公営住宅UR賃貸住宅のストックの中で調整することを意味したため、立地が限定されてしまい地理的なきめ細かいギャップ調整ができず、また、法により運営される性質上入居資格や家賃設定などきめ細かいギャップ調整ができない。

法を補完するNPOにも住宅建設が期待され、高齢者向け住宅の分野についてはNPOも大きく成長したが、貧困問題や女性問題などの分野では安定的にサービス展開できているNPOは限定的である。住宅セーフティネット法では住宅確保要配慮者居住支援協議会という行政・NPOセーフティネットをつなぐ役割を期待されている。

 

 

 

*1:ジル=ドゥルーズの「法と制度」の概念を援用している。目指すべきⅣはジル=ドゥルーズのいう「民主主義」である。

*2:本書でいう「呪い」