添景(TOMOO - Super Ball)

 大学では都市計画の学科にいたのですが、卒業するにあたり、通常の理系大学生であれば卒業論文を書くところ、私のいた研究室では卒業論文の代わりに卒業設計を作る人が多数派でした。私もその例に漏れず卒業設計を作って大学を卒業させてもらいました。

 卒業設計では最終的な成果物として模型を作ります。(といっても模型にたどり着くまでにウンウン考えて結局模型にかけられる時間はあまり取れずに、大学に泊まったり徹夜したり銭湯に行ったり先輩・後輩の協力を得たりしながら模型を何とか作り上げていくわけですが。)

 先生からも設計思想的な抽象的な話から模型作りの具体的な話まで様々な指導をいただきましたが、具体的な話の極致と言えるのが「ちょっと多すぎるかなというくらいでいいから、とにかく人の添景をたくさん置いたほうがいい」というテクニカルなアドバイスでした。

 「添景」という言葉はなかなか聞きなじみのない方も多いかと思いますが、建築模型を作る際に、ファニチャー(家具など)、車、植栽、…そして人間といった「脇役」のことです。「脇役」がいれば当然「主役」がいて、ここでの「主役」は建築になります。卒業設計の最終発表ではプレゼンボードや模型を使ってたった5分で発表するので、模型は卒業設計の出来栄え(のファーストインプレッション)を大きく左右するものになります。「添景」もなんだかすごそうな模型に見せるためのテクニックのひとつでした。

 卒業設計は建築をはじめとした物的環境を設計するのですから「主役」が建築になるのは当然といえば当然なのですが、卒業後に仕事をしてみて思うのは、やはり「主役」は人間であろうということです。

 そもそも人間が生活するために人間が作り上げるものですから「主役」は人間だと思いますし、そこまで堅苦しく考えなくても、いくら素敵な空間であっても人がいなければ物寂しさを感じてしまいます。(よほどモニュメンタルな空間でない限り。)また、下世話な話、その空間を作るために注ぎ込まれた事業費を想像すると、「これだけお金をかけてこれしか人がいないのか…。気の毒だな。」という気持ちにもなります。そういう意味でもやはり「主役」は人間なのだろうと思います。

 少し話は飛躍しますが、まちなかで撮られたMVが好きです。大体の場合、歌手なんかが、まちの中で歌ったり踊ったりしていて、「主役」として輝いているからです。実際に歩いた印象とは違う印象に仕上がっていたりするのもまた面白かったりします。

 

 (そんなわけで、ここまでは前置きなのですが、)最近好きなMVがこちらです。

 幕張ベイタウンの公道の真ん中で踊ってるけど道路使用許可を取っているのかな、一般人が全く歩いてなくて店も閉まってるけど何時頃撮ったのかな、このへんの公道は路上駐車も許容する設計だけど路上駐車全くないな、大学の演習で歩いたな、仕事でも歩いたな…などなど気になることはたくさんあるのですが、素敵なMVです。


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読書メモ:饗庭伸『平成都市計画史』

本書の構成

第1章:史観

平成期の都市計画を歴史として扱うにあたり、本書に通底する史観を述べている。次章以降で述べる歴史像や個々の史実を理解するための前段の役割を果たす章である。

第2・3章:バブル経済

第2・3章は、第1章で提示された発展的都市計画史観を平成期に適用した際の歴史像を概観している。第4章以降でテーマ別に個々の史実を述べるための前段の役割を果たす章である。

第4~6章:政府、市場、住民

第3章のキーワードである、規制緩和地方分権、特区、コミュニティを軸に平成の都市計画史を概観する。

第7~10章:個別分野

あああ

 

第1章 都市にかけられた呪い

明治維新以来の150年は、都市計画史の視点から、萌芽期(1868 明治維新~ cf.1888 東京市区改正条例)、確立期(1919 都市計画法(旧法)制定~ cf.1923 関東大震災、1939 第二次世界大戦)、成熟期(1968 都市計画法(新法)制定~)、の3つの時代に区分できる。

都市計画は、Ⅰ.制度も少ない状態→Ⅱ.法が多く制度が少ない状態→Ⅲ.法も制度も多い状態→Ⅳ.法が少なく制度が多い状態、の4段階で発展するといえる。*1

また、150年間の日本の都市形成を概観すると、日本の都市は、多くの規制的な態度(都市の無秩序な発展を防ぐために規制する態度)とわずかな設計的な態度(都市空間は設計するものであるという態度)により形成されたといえる。

以上の(法が多い⇔制度が多い)と(設計的な態度⇔規制的な態度)という対比軸から、日本の都市計画は以下のような発展を辿ったといえる。①法が多く、規制的な態度が優位(都市計画)→②法が多く、設計的な態度が優位(ニュータウン)/②制度が多く、設計的な態度が優位(まちづくり、市場による都市計画)

いずれの発展形態も、①の都市計画を突破しようとする動きにより実現される。ニュータウンでは法の高度化による突破であり、まちづくり/市場による都市計画では制度の蓄積による突破である。

頭書の時代区分でいう成熟期すなわち都市計画新法以後の都市計画の最大の特徴は、制度による法の突破を予め組み込んだ法設計*2である。都市の無秩序な拡大を抑制する線引き容積率という都市計画規制は都市計画新法により一斉導入され、これらは制度による広さ(まとまった敷地面積)と設計(適切な開発計画)により解くことができる。

補足

本文中では、都市計画関連業界ではなじみの薄い概念が援用されている。本文を追っていても尚難解であるため、この読書メモでは初見での理解しやすさを重視し、本文中の難解な表現は極力使わず噛み砕いた表現としている。

第2・3章

平成前夜・平成初期にあたるバブル経済期の失敗と反省が平成期の都市計画の変化を規定した。

第2章

バブル経済期を経て、政府(法)においては、いくつかの規制緩和の方法が試行されたが、容積率と線引きは大きく緩和されることはなかった。市場の制度においては、活発な都市開発が行われるも、バブル崩壊(地価暴落)により全体的に疲弊した。また、住民の制度は、ほとんど発展しなかった。

第3章

平成期は、上記の状況を踏まえて、育った制度の維持改善、疲弊した制度の修復を目的に、以下の手段が講じられた。

  1. 規制緩和市場/住民の制度に都市計画をゆだねようとする動き。
  2. 地方分権:市場/住民の制度に距離が近い市町村に都市計画をゆだねようとする動き。
  3. 特区規制緩和地方分権を限定的な時間・空間でおこなう仕組み。地域で取組を行う主体(市場の制度)による地域の再生を目的としている。
  4. コミュニティ:地域で取組を行う主体(住民の制度)による地域の再生を目的とし、地域を限定して規制を緩和する仕組み。地域で取組を行う主体(住民の制度)による地域の再生を目的としている。

第4章 都市計画の地方分権

1968年の都市計画新法において既に、都市計画の大部分の権限が機関委任事務として都道府県に移っていた。平成期の都市計画分野の地方分権は、都市計画の目標・権限・財源都道府県から市町村に委譲するプロセスであった。分権は以下の4段階で進められた。

  1. 1992(H4) 都市計画法の大改正
    市町村の都市計画に関する基本的な方針(通称:市町村MP)が導入され、その策定にあたり公聴会等の住民参加が法定化された。
  2. 1993(H5)~2000(H12) 第1次地方分権改革
    機関委任事務制度が廃止され、都市計画の大部分が機関委任事務から自治事務になったことで、国や県の関与の仕方が上下関係から水平的関与に変化した。
  3. 2001(H13)~2006(H18) 三位一体の改革
    三位一体の改革は、国から地方への税源移譲、国庫補助負担金の改革、地方交付税の改革を指すが、そのうち国庫補助負担金の一部廃止・縮減と引替に、従来の補助事業より市町村の自主性・裁量性が大幅に向上したまちづくり交付金(現:都市再生整備計画事業)が創設された。
  4. 2006(H18)~ 第2次地方分権改革

同時に、1999(H11)~2011(H23)にわたる都市計画法の段階的な改正により、都市計画の決定権限の一部が都道府県から市町村へ権限移譲された。

特に1999(H11)には国→都道府県、都道府県→市町村の関与の仕方が「認可」から「協議・同意」へ変化した。これと同時に、市町村がその権限を行使するのをサポートするため、都市計画運用指針の策定や市町村都市計画審議会の法定化がなされた。

また、住民により近い市町村への分権が進められるのと並行して、2000(H12)の地区計画申出制度の創設、2002(H14)の都市計画提案制度の創設など、住民参加の方法も拡充された。

第5章 コミュニティの発達と解体

成熟期の始まりごろに定義された「コミュニティ」という語は、法と住民の制度の間におかれた暫定的なプロトコルであり、平成期を通じて、法と住民の制度の間には様々なプロトコルが生み出され、淘汰・変容していった。

その変容を概観すると、地縁や共属感情をベースとしたコミュニティから、共通の目的をベースとしたアソシエーションへと移り、アソシエーション同士のネットワークが発展してきたといえる。一方、地縁ベースのコミュニティに比べて目的ベースのアソシエーションは脆く、平成を経て作り上げられた「尖ったアソシエーションと弱いコミュニティ」による都市計画制度は実に代わりやすいバランスの上で成り立っている。

住民参加のプロトコル

平成期に入るまでに、公聴会、住区協議会、地区まちづくりといったプロトコルが編み出された。

公聴会は、個々の住民の組織が等しく意見を表明し、議論できる説明会や討論会を開催し、公開の場で討論・決定できるようなプロセスだった。強い政府に対して活発に住民運動が展開されるという「法が強く、制度も多い」状況を想定して作られたが、日本の地域における住民の組織は実際はそれほど多元化しておらずそれほど活発でもなかったため、現在に至るまであまり使われなかった。

住区協議会は、都市をあるべきコミュニティの単位に分割し、各単位に底を代表する議会のような会議体を作りあげようとした。「住民は制度を作り出せていない」という認識のもと、コミュニティの代表となる会議体を創ればそこを起点にコミュニティが作り出されると想定して作られたが、会議体はあくまで会議体でありコミュニティはあまりできず、また、会議体は議論し決定する場ではあるが実行する場ではなく、実行部隊となる行政が住区協議会にリソースを割けなかった。結果的に大きく広がることはなかった。

地区まちづくりは、既に実態のある活発な住民組織と政府が戦略的に関係を作り、都市計画の法と住民の制度の関係構築を図った。住区協議会と同様に区域内の課題をすべて解決しようとする"均等平等主義的"な側面をもつ一方、住区協議会と異なり都市全体を網羅的にカバーするのではなく都市内の特定の区域のみを対象とする"戦略主義的"な側面もあった。

地区まちづくりのなかで導入されたワークショップ手法により、協議の場は構造化され明確な目的を持つものになったと同時に、目的を強く持たないじっくりと地域の合意を醸成するような堅苦しい会話は淘汰されていった。

NPOは地区まちづくりのような総合的・区域ベースの組織ではなく専門的・目的ベースの組織として設立され、個々のNPOを点、NPO同士のつながりを線とするネットワークによる都市計画が構想され、強化されていった。

1998(H10)のNPO法により法人設立を許可制でなく認証制としたことにより法人設立が活発になったほか、NPO同士/NPO-行政/NPO-民間組織をつなぐ中間支援機構の登場をみた。また、2003(H15)に始まった指定管理者制度NPOが指定管理者として施設の管理運営にかかわりNPOの経営基盤を強化することにつながった。NPOは住民と政府の関係を住民参加から協働関係へと変化させた。

中心市街地活性化におけるプロトコル

中心市街地活性化においても政府と住民の制度の間のプロトコルが模索された。1998(H10)中心市街地活性化法ではウンマネジメント機関(TMO)中心市街地における商業集積の一体的かつ計画的な整備をマネージすることが想定された。しかし、その障壁となる所有権と利用権の分離は、当時TMOとなるべく期待された商工会議所では商業者の会員組織という性質上難しく人でも十分でなかったためTMOの効果は限定的であった。

2006(H18)の中活法改正でTMOは法的な位置付けを失い、新たに、具体的な建物の再生やサービス提供を担うまちづくり会社中心市街地整備推進機構や、これらの組織が参加する中心市街地活性化協議会が位置付けられた。区域内のすべての活性化の取組を行おうとした"均等平等主義的"なTMOに代わり、専門特化した組織のネットワークが活性化の取組を行い、協議会をその連絡調整や意見集約のためのプロトコルとして設置する"戦略主義的"な座組への変化だった。

中心市街地の再生が課題となったH10年代ごろからエリアマネジメントが検討されるようになった。一定の区域内における建物や道路・公園などのインフラをNPOや民間企業などが政府に代わって維持管理するもので、区域内のすべてを対象とする"均質平等主義的"な側面と、地域価値の維持・向上という明確な目的に基づく"戦略主義的"な側面を併せ持つ。財源の確保は地権者からの賃料収入による場合もあれば、行政が地権者から分担金を徴収しエリマネ組織の財源に充てる方法も現れた。

第6章 図の規制緩和と地の規制緩和

バブル経済崩壊により疲弊した市場の制度に対し、市場の制度を修復する動きと、市場の制度を復活させるための規制緩和の動きがみられた。

市場の制度を修復する動きとして、1994(H6)の民間都市開発推進機構への土地取得・譲渡業務の追加による民間都市開発事業の土地有効利用の促進、1996(H8)に始まる住宅金融債権管理機構住専債権回収による不良債権化し土地の処理、1997(H9)の新総合土地政策推進要綱による地価抑制から土地有効活用への政策方針転換、2000(H12)の投資信託法改正に始まるJ-REITによる民間都市開発業者の開発資金調達の活発化が展開された。

規制緩和は、一律に緩和する「地の規制緩和」と、設計との引換を条件とした「図の規制緩和」との両輪で行われた。

地の規制緩和として、地下室の容積算入に関する規制緩和共同住宅の共用部分の容積算入に関する規制緩和指定確認検査機関の導入、用途地域における容積率等の選択肢の拡充天空率の導入がおこなわれた。

図の規制緩和として、平成期に至るまでは、特定街区総合設計制度高度利用地区地区計画といった制度が存在していたが、バブル経済期の1988(S63)の再開発地区計画に端を発して、1990(H2)に用途別容積型地区計画住宅地高度利用地区計画、1992(H4)に誘導容積型地区計画容積適正配分型地区計画、1995(H7)に街並み誘導型地区計画、2002(H14)に高度利用型地区計画・再開発地区計画・住宅地高度利用地区計画を統合した再開発等促進区が創設され、地区計画制度は詳細な都市計画を実現する手法という当初の趣旨から規制緩和手法へと変化していった。

また、2002(H14)の都市再生特別措置法に基づき国が都市再生緊急整備地域を指定し、その地域内の規制緩和を民間事業者が提案し、それを受けて都道府県が都市再生特別地区を決定し規制緩和をおこなう制度が創設された。

資金調達面でも、民都機構や日本政策投資銀行による債務保証、民都機構道路や公園等の公共施設の建設費用の無利子融資といった支援制度が創設された。

東京都においては独自の「図の規制緩和」のしくみが作り出された。2001(H13)の東京の都市づくりビジョンで示したセンター・コアにおいて、2002(H14)の東京都における都市再生特別地区の運用についてと2003(H15)の新しい都市づくりのための都市開発諸制度活用方針で示した公共貢献と規制緩和のメニューを使って市場に設計させる、とい手法である。事業者と都の事前相談でメニューの組合せを協議し、事業者からの正式提案後、都庁内での検討を経て都市計画案の作成を行うものである。

地の規制緩和と図の規制緩和により市場の制度は成長したが、その成長は収益を原動力としたものであり、収益を上げやすい都市を作ることに特化した成長であったともいえる。

第7章 市場とセーフティネット

平成期は、公営住宅公団住宅住宅金融公庫という住宅政策の三本柱の終焉と、市場とセーフティネットからなるポスト三本柱の時代への転換期となった。住宅供給は量的水準・質的水準は好調に推移し、今日ではフローの供給ではなくストックのマッチングが主要な課題へと変化している。

三本柱の終焉

公営住宅は、1996(H8)の公営住宅法大改正により民間住宅の借上・買取による公営住宅の間接供給が可能になり、入居者収入や立地・規模を加味した応能応益家賃制度が導入されたが、結果的に公営住宅の戸数は2003(H15)をピークに減少が続いている。

公団住宅は、2004(H16)の都市再生機構への再編で賃貸住宅の新規供給は原則廃止となった。

2005(H17)に社会資本整備審議会の答申「新たな住宅政策に対応した制度的枠組みについて」において、従来の三本柱に代えて、市場重視の新たな住宅金融システム公的賃貸住宅ストックの有効活用による住宅セーフティネットの機能向上の二つの枠組みが示され、2007(H19)住生活基本法、2007(H19)住宅セーフティネット法が制定された。

住宅金融公庫は2007(H19)に廃止、住宅金融支援機構が設立された。従来の公庫のような直接融資は原則廃止し、住宅ローンの証券化支援という形で民間金融機関の支援をおこなう役割を担うようになった。

市場とセーフティネットによる需給ギャップの調整

平成期後半において量的水準・質的水準ともに住宅供給は順調に推移した。一方、需給がうまくマッチングしないギャップを調整することが課題となっている。

身体・精神機能が衰えていく高齢者の住宅需給ギャップに対し、市場はサ高住や有料老人ホームといった高齢者向けの住宅や福祉施設を作るなどフローを多様化することによりギャップの調整が進んだ。一方、1973(S48)に住宅数が世帯数を上回って以降その差は開き続け、余剰ストックに対しフローが供給され続ける状況となったことから、空家対策が新たな課題となり2014(H26)には空家対策特別措置法が制定された。

セーフティネットによるギャップ調整は、新規建設がほとんどなくなった公営住宅UR賃貸住宅のストックの中で調整することを意味したため、立地が限定されてしまい地理的なきめ細かいギャップ調整ができず、また、法により運営される性質上入居資格や家賃設定などきめ細かいギャップ調整ができない。

法を補完するNPOにも住宅建設が期待され、高齢者向け住宅の分野についてはNPOも大きく成長したが、貧困問題や女性問題などの分野では安定的にサービス展開できているNPOは限定的である。住宅セーフティネット法では住宅確保要配慮者居住支援協議会という行政・NPOセーフティネットをつなぐ役割を期待されている。

 

 

 

*1:ジル=ドゥルーズの「法と制度」の概念を援用している。目指すべきⅣはジル=ドゥルーズのいう「民主主義」である。

*2:本書でいう「呪い」

都市とのかかわり方についての備忘録(言葉で都市を変えてゆく)

 およそ2年半前、「都市とのかかわり方と進路についての備忘録」という記事をこのブログに書いた。当時は就活の真っただ中で、就活をするにあたり、自分の価値観として何に重きを置くのか、その指針を探る思いで書いたのだと思う。当時重きを置いていたのは「都市の個別性とのかかわり方」という視点だった。有り体にいえば、抽象的な制度・計画にかかわるか、個別具体的な事業にかかわるか、という話である。

 結局は「個別具体的な事業」寄りの仕事に就いた。そして、就職して1年半が経った。都市にかかわる実務に就いて、当時は持っていなった視点を持つことになった。それと同時に、学生当時も当然に持っていたが当然すぎるがゆえに気づいていなかった視点の存在にも気づくようになった。以下の視点はそのひとつだ。当時書いた「視点1」の次の番号、「視点2」としてみる。

 

視点2 都市に物語を見出すこと、その続きを描くこと(言葉で都市を変えてゆく)

 都市に物語を見出したい。そして、見出した物語の続きを描きたい。――という欲望がある。

 都市には無数の物質的・非物質的、自然的・人為的、制度的・社会経済的・文化的・歴史的要素があり、それらが膨大であるがゆえに無数の「解釈のされかた」を秘めている。文学が好きな人が、文学作品の解釈の仕方でああでもないこうでもないと議論することに愉しみを見出すように、都市を解釈するのも愉しい。都市に物語を見出し、都市を自分の言葉で語るのだ。おそらく文学好きが、斬新かつもっともらしい解釈を見つけたときに興奮するのと同様に、都市においても、斬新さともっともらしさを両立した物語を見出せたときには得がたい悦びがある。

 そして、その一歩先までできればさらに愉しい。解釈したその先の未来、つまり、物語の続きを描くことができれば。描くだけでなく実現できればなおよい。自分で解釈した物語、それを紡いだ言葉で都市を変えてゆければ。

 もちろん文学作品と違い、都市には様々な制約があり、何より、権利者を含め関係者が数多くのひとがかかわる。都市を変えるのは容易ではない。容易ではないが、言葉で都市を変えられると信じたい。

【リンク集】住宅地編

リンク集。随時更新。

 

住宅生産振興財団

 

#令和元年の奥の細道 03 室の八島

室の八島

室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火〃出見のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を讀習し侍もこの謂也」。将このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に傳ふ事も侍し。

 草加から国道4号を北上し、栃木市の大神(おおみわ)神社に到着。大神神社には歌枕として知られた室の八島を模した庭園があり、庭園の前に立つ「糸遊に結びつきたる煙かな」の句碑を訪ねます。

 『奥の細道』本文では「糸遊に」の句は登場しませんが、歌枕として知られる室の八島の由緒が曾良の口から紹介されます。

 句碑の脇にある鳥居をくぐると、庭園の池に祠を戴く8つの小島が浮き、小さな橋が一筆書きに小島を結びます。

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栃木の大神神社にて 「糸遊に」句碑

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島から島へ、祠から祠へ、参詣者を誘う室の八島

 大神神社社務所では草鞋を模した参拝の証を購入。再び車に乗り込み、日が暮れる前に日光を目指します。

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大神神社境内の大谷石

 今回はここまで。次回は「日光」からです。

 

 

 

#令和元年の奥の細道 02 旅立ち~草加

旅立ち

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧〃として、月は在明にて光おさまれる物から不二の峯幽にみえて、上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし。むつまじきかぎりは宵よりつどひて舟に乗て送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝく。

行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人〃は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。

 いよいよ奥の細道の旅が始まります。

 芭蕉は深川から隅田川を上って千住で上陸し、旅を始めました。私たちも舟に乗れれば面白かったのですが、今回の旅では軽自動車が足になるので、まずは東京メトロ綾瀬駅近くのレンタカー屋へ。車を借りて、旅立ちの地、千住へと向かいます。

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千住の素戔雄神社にて 「行く春や」句碑

 千住には何か所か句碑があるようですが、私たちは素戔雄神社の句碑を訪ねました。境内の右脇に隅田川を模した池と千住大橋を模した石橋があり、その向こう岸に句碑が並びます。句碑へと至る石橋と句碑を上から覆うように茂る木の枝葉が奥行きを感じさせ、雨に濡れた石や苔が却って質感を際立たせます。7泊8日の旅の安全を祈願し、神社を後にしました。 

草加

ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて呉天に白髪の恨を重ぬといへ共耳にふれていまだめに見ぬさかひ若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸早加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた雨具墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるはさすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。

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草加にて 芭蕉

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草加松原 「おくのほそ道の風景地草加松原」として名勝に指定されている

 千住から国道4号で北上して草加へ。草加といえば獨協大学前〈草加松原〉駅西側の松原団地のイメージが強かったのですが、今回訪れたのは駅東側の綾瀬川沿いに伸びる草加松原遊歩道。(あとから調べたところ、どうやら車を借りたレンタカー屋のある「綾瀬」という地名はこの綾瀬川の流域であったことに由来しているようです。)この遊歩道の一角に芭蕉銅像が立っています。句碑はありませんが、銅像台座に「もし生きて帰らば~」の碑文があります。銅像近くには「草加宿芭蕉庵」とある小屋が設けられ、そこで草加煎餅を購入。草加煎餅は江戸時代に街道の名物となったようです。当時の草加宿は獨協大学前駅草加駅の間に相当する位置にあったようですが、現在でもこの日光街道沿いに煎餅屋が営業しています。

 草加松原は「おくのほそ道の風景地」として名勝に指定されています。この名勝は地理的に離れた複数の県をまたいで一体的に指定されている点で特徴的なようで、執筆時点では草加松原を含めて25か所指定されています。

 草加からは一気に飛んで、「室の八島」栃木県栃木市大神神社へと車を進めます。草加から大袋駅付近で国道4号に合流し、車窓の景観が市街地から郊外へと一気に変化します。首都圏の市街地は鉄道路線沿いにヒトデ状に広がっているといいます。これまで走っていたのは東武伊勢崎線というヒトデの「腕」だったわけですが、大袋駅付近で国道4号はヒトデの腕から逸れていきます。こうした鉄道ネットワーク・道路ネットワーク・市街地の広がりといったレイヤーの重なり方が、軽自動車の運転者たる私に車窓の景観として知覚されるのです。

 並走する多数のトラック、沿道のロードサイド型店舗とその巨大で派手な色遣いの看板、スケールアウトした物流施設や工業団地といった「郊外の幹線道路」の景観は今後の旅を象徴する景観のひとつであり、似たような景観をこのあと何度も目にすることになります。

 

 今回はここまで。次回は「室の八島」からです。

#令和元年の奥の細道 01 序章

序章

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は日〃旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海濱にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。

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江東区芭蕉記念館にて 「草の戸も」句碑



 この夏、そして来たる冬に、軽自動車で奥の細道の足跡を追う旅に出ます。

 正確なきっかけはよく覚えていませんが、おそらく大学の前期課程の講義で中国の古典に触れたことがきっかけで漢籍か否かにかかわらず古典というもの全体に漠然とした興味が湧き、中学か高校の古文の授業で触れたことのあった「奥の細道」を手に取ってみたという具合だと思います。

 もともと旅行自体も好きだったので、大学1年生の頃から「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやま」なかったのですが、そろそろ大学も卒業するし卒業後の進路も大学院ではなく就職ということに決まったので、「そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあ」った次第です。

 ちょうど今年は芭蕉奥の細道の旅に出てから330周年ということで、かつ元号も改まったということで、この旅を「令和元年の奥の細道」と題してみようと思います。

深川と芭蕉ゆかりの地

 ということで、まずは旅の始まりの地、深川へ。江東区芭蕉記念館、芭蕉庵史跡展望庭園、芭蕉稲荷、採荼庵跡を訪ねてきました。今回は都内で近いので、軽自動車の旅に先駆けて灼熱下に徒歩でまわりました。

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芭蕉庵史跡展望庭園にて 隅田川下流側を臨む

 芭蕉庵史跡展望庭園は芭蕉記念館の分館の一部(屋上)という扱いのようです。平日の昼間ということもあり、芭蕉記念館と展望庭園は人も少なく、落ち着いて観覧できました。展望庭園は小名木川隅田川に合流するポイントにあり、オリジナルの奥の細道の旅の出発地点である深川の採荼庵(小名木川の南にある仙台堀沿い)から千住に至る船旅のルートを臨む格好となっています。

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芭蕉稲荷神社

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芭蕉稲荷神社にて 芭蕉庵跡の碑

 芭蕉稲荷は、大正時代に芭蕉遺愛のものとみられる石蛙が発見されたことから、これをご神体として祀ったというのが由緒のようです。芭蕉庵の正確な位置はわからないものの、このあたりだったようでここに史蹟芭蕉庵跡の碑が位置しているとのことです。深川の芭蕉庵というのは第1次から第3次まであるようで、1次と2次は同じ場所に、3次は周辺の異なる場所にあったようです。

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採荼庵跡

 当時の仙台堀は今は仙台堀川と称されています。この川沿いに原文中の「杉風が別墅」つまり(第2次芭蕉庵から芭蕉が移ってきて住んだ)杉山杉風の別荘だった採荼庵が位置していたとのことです。採荼庵跡には庵を再現したような建物と、今から旅に出ようとしているかのようにも見える芭蕉の像が設置されています。ちなみに、後ろの庵を再現したような建物は裏から見ると張りぼてで、予算の都合上か材質もデザインも現代に近い不思議な建物でした。

おまけ

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きよすみガーデン

 採荼庵から清澄白河駅へ向かう道中で見つけた、小さな庭空間。清澄通り沿いに建てられたコンクリート造の長屋(旧東京市営店舗向け住宅)のうち、1軒ぶんまるごとなくなったところに住民が鉢を持ってきて町会が管理しているらしい。休憩できるようにベンチも置かれている。ちなみに、この写真の背後の塀の向こうは清澄庭園。周辺にはリノベしたおしゃれな店舗も多い。歴史的ストックをうまく現代的に活かす雰囲気が楽しい。